初代安藤道悦は秋田から来た二人兄弟の弟で、兄は現在の下坂井、茨久保に棟上げしたと言われています。その初代道悦の亡くなった日と薬師如来堂が創建された年からどう考えても300年以上は経過しているということで2008年に岡沼安藤家300年という冊子を作成し太田地区全家庭に配布しました。何故、薬師如来堂がこの地にあるのでしょう?皆さん考えて見て下さい。岡沼安藤家は初代から漢方医の仕事をしていました。三代目玄篤が盛岡で熱冷ましの薬を販売していた証拠となる木版が存在します。岡沼安藤家は漢方医と地主という二つの面をもっていました。四代目玄索は南部藩の二子通御役医、続く五代目玄碩も南部藩から俸禄を頂く藩医としてこの地域の医療に貢献してきました。診察し、薬を処方していたのでしょう。おそらく、現在以上に、なかなか薬だけでは回復しない病気もあったのではないでしょうか?そうしますと、やはり昔も現在も神頼みをせざるおえない状況があったと思われます。そういう中でみなさんのご先祖の方も相当数、お参りにいらしたとことと思います。二子通、現在の笹間、太田、南城、飯豊の地域には町医者を含めて数件の診療所しか無かったのです。ことこの太田地区に於いては、江戸時代後期、明治大正の時代までは岡沼安藤家が医療を担っていたのです。このことは、昭和以降に生まれた方はほとんど知りません。
そんな中、六代目を継ぐはずの玄篤(三代目玄篤と同名)が若くして急死しました。その妹も家を出ていましたので、後を継ぐ長男を失いました。そこで飯豊の町医者照井立伯の三男右橘を婿養子に入れ、清水寺に嫁いだ安藤いしの娘、千賀を養女として迎え、安藤家の血筋を守った事が、南部家老日誌に記されています。私の身近では婿養子はがんばる人が多いように思いますが、その安藤右橘も例にもれず多くの仕事を残しています。その当時敷地内には病室、入院施設があり西洋医学を行う蘭方医として働き、遠くは馬に乗って鉛温泉の方まで往診に行っていました。しかしながら医者の仕事は今と違って、収入が良いものではなく、毎年赤字であったようです。診察費の支払いは年末にまとめてあったようでその支払い台帳は蔵に残されています。お金を支払えない人もいて、相談する様子を聞かされています。しかしそれも地主という側面もあったので昭和の初め、戦前までは大変な金持ちであったことは、地域の方に知られている様で、よく昔の岡沼の名声を聞かされます。その右橘は太田村の村会議員を41年間努めております。ですから明治大正の時代は息子武と2人で医業を行い地域に貢献していたことになります。このころが岡沼安藤家の絶頂のころでした。右橘の孫、良が医学生の時に結核で24歳で亡くなりました。昭和2年の事です。その後医者である息子武も57歳の時、食道癌で亡くなりました。昭和8年の事です。大変な不幸が続きました。
安藤家の敷地内にある薬師如来堂以外のものは、すべて昭和6年ごろに急いで作られたものばかりです、金比羅堂、仁王様、毘沙門様、右橘の石像など。これらは、秋田県湯沢の石切から職人さんを寝泊まりさせて作ったものです。病気と同じでなかなか治らなかったり、思うようにいかない時は人、力なく祈るしかありません。信仰に向かったのかもしれません。岡沼薬師堂の敷地内はその後、公民館がまだ無い時代に子供たちの遊び場、学習発表会、体操をする場であったり、村祭りの芸能舞台であったり、戦争出兵の際に地区民全員が安全を祈念して見送る場でもありました。現在では、4月8日の薬師さんの御縁日を第二日曜日の火防際とあわせ、清水寺の住職さんに祈祷をお願いしています。薬師さんがなぜここにあるのか、どう地域の方と関わってきたのかご想像いただきたいと思います。そういうことを思いぜひ一度参拝にいらしていただけたら良いと思います。

 

岡沼安藤家十代目 安藤 歩