私の ふ る 里
上田 テイ子
私の生まれ育った岡沼は、大昔は大きな沼で大蛇が棲んでいたという伝説があります。 しかし私の子供の頃(昭和のはじめ頃)には沼などはなく明るく広々とした田圃や畑や雑木林のあ る静かなよい所でした。 広い屋敷林に囲まれた家の西側にはお薬師様金毘羅様のお社や石像のある広場があって、近所の子供 達とよく走り廻って遊んだものです。林のまわりには堀があって、古墓の前の田圃に水を供給してい ました。 林には栗の木がたくさんあって朝早く拾いに行きました。栗は蒸してから筵に広げて干して冬のお やつになりました。便所の後には山梨があり、板倉の前には甘柿、作業小屋の横には角ばった大きな 実のなる渋柿があってこの柿の実を火棚に上げて置くと、とぷとぷと軟らかくて甘い上等のおやつに なりました。たくさんの実をつける大きな渋柿もあって、これは渋抜き(お湯でしたような気がします) して冬中食べました。 家は格式のある大きな構えで、母屋の南側には診療室があり、北側には入院患者の入る病室があり ました。曾祖父である右橘おじいさんの五代前から続く医者の家で田地もたくさんあるので農業に携 わる若い男性が三人程住み込んでいましたし、看護婦さんや炊事をする女性も居て、とても賑やかな 家でした。 私が産まれた昭和五年当時の家族は、曾祖父右橘・キタ夫妻。祖父武・サイ夫妻。孝叔父。父寛・母信乃・ 長女テイ子の八人で、後継ぎである良・サエ夫妻は二人共亡くなっていました。家の中はどのようになっていたか思い出してみますと、まず通用口の重い板戸を開けて入ると土間がありました。正面は馬屋で二、三頭の馬が飼われていて、インホホーンとお出迎えです。馬は農耕 用だけでなく、武おじいさんの往診にも役立っていたそうです。 土間の左手は、板の間になっていました。そこに小作米が運ばれ、俵の外に丸い一斗枡四角い一升枡 でお米を計って受取っていたのを思い出します。 板の間は冬農閑期の作業場で、縄や、けら、つまご、などを作り、土間では、筵やこも、俵を編ん でいました。近所の人も材料を持って来て一緒に作業していたのを思い出します。 春は雪のあるうちから農作業の準備をはじめます。田圃に馬の肥を運んだり、農具の手入れもしま す。お米をつくるのは一年の大事業なのですね。 田植えの時は、二、三十人の人が早朝から手伝いに集り、苗取りをする人、縄を張る人、苗を運ぶ人、 田植をする人と本当に活気がありました。小昼の時は庭に板で臨時の飯台を作って御馳走を並べまし た。田植えとか稲刈りの時は、田圃で働く人も食事係も大忙しです。 私達子供も張切って苗運び等手伝いました。稲刈りが終ると、丸太を組んでハセを作ります。三段、 四段の高いハセに、稲の乾燥が終るのを待ってハセ登りをしました。高い所に登ると気持がいいものです。 稲を乾燥させるものはもう一つありました。太い丸太を一本立てて互い違いに稲束を穂が外側にな るように積んでいくホンニョ(穂にお)というものでした。よく一口かじって渋かった柿をホンニョ の中にかくして甘くなるのを待っているうちに、どこにかくしたか忘れたという笑い話のようなこと も聞きました。冬で思い出すのは、家に住み込みで働いている人達のすてきな遊びです。 台所の上り口には、火びとがあり、煮炊きをしたり、暖房の役目もします。夕食の後始末が終る頃は、 台所もほんのり暖かく、火びとにはたくさんのおきが出来ます。誰かの一声で炬燵やぐらがセットさ れ、炬燵布団を掛けると大きな炬燵の出来上りです。柿など食べながらトランプや花札で遊ぶのです。 とても楽しそうでした。 台所のさきは、きれいな中庭があり、倉がありました。倉には、お椀とかお膳とか火鉢とか食器類 が何十人分か揃っていて、地域の方々の冠婚葬祭の時貸し出す習しになっていました。それが終ると 洗ったり拭いたりして次に備えるのです。 倉の二階には、長持が何個も置かれ、巾着型の大きい旅行鞄のようなものがぶら下ったり、文庫本 があったり、今まで知らなかった何かの気配が感じられ、少し恐かったのを覚えております。 家族のことに戻りますが、武おじいさんが私が三才の時に癌で亡くなりました。私の弟の実が生ま れた頃ではないでしょうか?それから父母は分家し、孝叔父さんは、アン叔母さんと結婚し、家を 継ぎました。医師会長をやったり議員をやったりした右橘ひいおじいさんも私が学校に入る前に亡く なったように覚えております。三年生の時はキタひいおばあさんも亡くなりました。はっきりした年 代は忘れましたが、杉の木に雷が落ちたことがありました。どっちのおばあさんだったかはっきりし ませんが布団を並べて寝ているそのまん中にドーンと落ちたようでした。次の日林に行って見ると悪 魔が鋭い爪で引かいたように幾筋にも杉の皮が剥がされていました。 孝叔父さんの所には、幸子さん、礼子さんが産まれ、カヨさんも加わり三人の子供ができました。 私の兄弟も実、学、熙、絢子、洋子、ゆき子と私を入れて七人の兄弟ができました。 診療室はその後、農繁期の託児所に利用され役に立ちました。 サイ祖母さんは七十五才まで長生きして、孫や曾孫も見ることが出来て幸せでした。 今私も七十八才を過ぎ、記憶も曖昧になりましたが、目を閉じると明るい田圃や元気だったお祖父 さん、お祖母さんが目に浮かびます。 歩さんが先祖のことを調べて本にして下さいまして昔の岡沼を背負って奮闘された御先祖の皆さん方 はどんなにか喜んで居られることと思います。本当に有難うございます。